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“メイショウ”松本好雄オーナー死去 「馬」を愛し「人」に愛された名物馬主 前人未到の個人馬主JRA2000勝を見届け天国へ

2025年09月03日 06:00

 松本好雄さん

 “メイショウ”の冠名で長く日本競馬界を支えてきた馬主で、(株)きしろ代表取締役会長の松本好雄(まつもと・よしお)さんが8月29日未明に膵臓がんのために死去したことが2日、分かった。JRAが発表した。87歳だった。葬儀・告別式はすでに近親者のみで執り行われ、後日お別れの会を行う予定。先月23日に個人馬主として初のJRA通算2000勝という大記録を達成したばかり。06年ダービー馬メイショウサムソンなど、数々の個性派とともに歩み続けた半世紀超える馬主人生。武豊騎手(56)=栗東・フリー=ら関係者からは、悲しみの声が寄せられた。

 競馬界が大きな悲しみに包まれた。“メイショウ”の冠名でファンや関係者に愛された名物オーナーの松本好雄さんが87歳で天国へと旅立った。先月23日に個人馬主として史上初のJRA通算2000勝を達成した直後。その際もJRAを通じ、「生産牧場、育成牧場、調教師、厩舎スタッフ、騎手などそういう人とのつながりを大事にしてきたつもりですけど、その結果が今回の2000勝につながったんだと思います」などと喜びのコメントを出していたが、記録達成の瞬間も競馬場に姿はなかった。名手・武豊が「不滅と言い切っていいくらいの大偉業」と、たたえた節目の勝利を見届け、帰らぬ人となってしまった。

 松本さんに膵臓がんが見つかったのは7月中旬頃。その後多臓器への転移も見つかり、治療が難しいことから病院に入院せず、自宅療養しながら会社に出社していた。8月初めには競馬場や北海道の牧場にも足を運んでいたが、亡くなる3週前頃から食欲が落ち、呼吸も苦しくなっていたという。それでもJRA通算2000勝を達成した23日には会社で社員らと観戦し、喜びを分かち合った。翌24日には会社のある明石市内で、お祝いに訪れた本田師や石橋師と食事会を開いたという。

 半世紀を超える馬主人生は、常に「人」と「馬」とともにあった。06年ダービー馬でG1・4勝を挙げたメイショウサムソン。武幸四郎元騎手(現調教師)とともに13年に牝馬G1を3勝したメイショウマンボ。JG1・2勝のメイショウダッサイやダート交流G1級4勝馬メイショウハリオだけではなく、“小倉3冠馬”メイショウカイドウ、重賞2勝馬メイショウオウドウ、メイショウベルーガなど、数多くの個性派を世に送り出した。

 その傍らには常に人の支えがあった。北海道日高地方の浦河との縁が深く、生産者との絆を大切にするオーナーとして、長く日本競馬界の発展に貢献。浦河には“三愛会”という松本さんを慕う集まりがある。その中心が三嶋牧場で、そこで生産されたのが今年の宝塚記念覇者メイショウタバルだ。騎手や調教師など競馬関係者には専門家として敬意を払い、そのやり方には口は出さなかった。騎手時代にサムソンでダービーを制した石橋師は、管理馬のタバルでG1初Vを飾ると人目をはばからずに涙を流した。その人間性は、誰からも慕われていた。

 個人馬主初のJRA通算2000勝の金字塔を達成するまで、51年の年月とともに2万7629戦を要した。月日とともに競馬は形を変えてきたが、その魅力は不変と信じて歩んできた馬主人生だった。「競馬は奥の深い、歴史のある遊びですから、これからも楽しんでほしい」。最後に自らが残したメッセージとともに、これからは天国から日本競馬界の発展を願い、見守り続けていく。

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