30歳。結婚や転職を意識するように、一般的に一つの区切りとして考えられる節目だ。来年に30歳を迎える記者自身も、考えさせられることがないと言えばウソになる。人生の転換期とも言えるそんなタイミングで、大きな決断を下した超異色の経歴を持つホースマンを紹介したい。
栗東・庄野厩舎で攻め馬専門の調教助手として屋台骨を支える35歳の笠原太朗助手。実は、元JRA職員で、さらには美容師見習いも経験した、唯一無二の調教助手だ。
そもそも、競馬に興味を持ったきっかけは、中学時代に出合ったテレビゲーム「ダービースタリオン」。そして、初めて生で見たG1(2002年菊花賞)で臨場感に衝撃を受けたという。京都府内で唯一、馬術部のある高校に進学して本格的に乗馬を始めると、2、3年時にはインターハイ出場。同志社大学進学後も全日本学生馬術大会に出場するなど、着実に
ステップアップを重ねてきた。
大学卒業後はJRAに就職。将来的には発走委員や裁決委員、競馬学校の教官など、馬乗りの感覚がなければできない仕事に進むための職種に就きながら、障害馬術の選手として腕を磨いた。ただ、当時の馬場公苑には日本を代表する選手がずらり。
「僕自身、高校、大学と技術的にあまり上手ではなかったので、ついて行くのに必死。苦しいことが多かったです」
そう振り返るが、そこが今の技術の土台だ。オリンピックにも出場する一流選手、指導者に師事して懸命に食らいつくと、見事3年目に大会優勝を果たした。
順風満帆に歩みを進めたが、気付くと30歳の目前。そこで、たまたま将来について考える機会があり、「もともと、生まれ変わったらなりたいと思っていた」という美容師の道に強く憧れを抱くようになった。「人生一度きり。経営者になりたくて、自分で成果を出せる環境を求めました。迷いはなかったですね」。安定した生活、積み上げてきた実績。普通の人はそれにすがって生きていくのが常かもしれないが、それらを捨てて第2の夢を追った。
約7年間勤めたJRAを退職して、美容師の専門学校へ。平行して実店舗で経験を積み、見習いとして着々とキャリアを積んだ。ただ、経営者になることを考えると、現実は甘くなかった。
「免許を取れても、技術が身についてお客さんが定着するのには10年くらい必要と言われたんです。馬には10年以上乗ってきてプロとしてやっていける自信があるなか、実際に身につくか分からない新しいことに10年間を費やすのはどうかと考えるようになって…」
そこで偶然目にしたのが“競馬学校厩務員過程 年齢制限撤廃”の報。これまでは満28歳以下に限定されていたが、2019年にルールが改正されたのだ。「もともと競馬が好きで入った世界でしたから」。不確かな未来より、ビ
ジョンが見える未来。そして愛を注げる世界に、再びかじを切った
ダーレー
ジャパンファームを経て、競馬学校に入学。昨年1月から庄野厩舎の攻め専として腕を振るい、1年半が経過した。「本当にやりがいがあります。自分のやったことが直結して答え合わせというか、結果に出ますからね。自分の成果を出す仕事をやりたいと思っていたので、合うところがあります。とても満足ですよ」と充実の汗を拭う。
「攻め専は多くの馬に乗りますが、その感覚を捉えることはできる方だと思います。それを血統とひもづけて、データとして自分の中に持っておく。例えば、“
スワーヴリチャード産駒って似ているな”だけではなく、“父の中のアンブライドルドが出ているな”などを感じながら乗りたいです。いろいろ交雑していますが、突き詰めると血統から来るものが大きいと思うので」。
JRA時代に培った研ぎ澄まされた感覚と血統の
マリアージュ。血統好きの私としては思わず引き込まれそうになる。可視、不可視を織り交ぜた独特の感性で馬づくりに心血を注ぎ、調教を担当した
ドゥアイズは今春、牝馬クラシックの王道を歩んだ。タイトルにはまだ手が届いていないが、早くも結果に結びつきつつある。
次なる夢は調教師になること。「いつか経営者になりたい」という目標につながるものだ。まだ超難関の試験には挑んでいないが、来年あたりからチャレンジを始めるつもりだという。夢を追い続ける“笠原調教師”の誕生に期待しながら、日々の馬づくりに熱視線を送りたい。(デイリースポーツ・山本裕貴)