記者にとって、印をつける最後の有馬記念が終わった。◎
ジェラルディーナは3着。直線のあの脚。スタートの遅れが悔やまれる。そして、当初?候補の一頭だった▲
イズジョーノキセキは4着。極悪馬場に泣いたエリザベス女王杯10着から全く人気はなかったが、「良馬場なら…」と見込んだ目は間違いではなかったと、こちらは満足だった。
当欄の趣旨と離れるかもしれないが、私事ながら、来年2月で定年を迎える。85年4月にデイリースポーツにアルバイトとして入社してから、今日に至るまで競馬一本。地方競馬(南関東)をスタートに中央競馬へ。好きなことを担当させてもらえたことには感謝している。
競馬の世界は流れが速い。ダービーが終われば、もう次の年のダービーへ向けての戦いが始まる。正月の東西金杯から年末の有馬記念まで、毎週のように競馬の開催がある。競馬記者にとっては、自分の付けた印の反省をする暇もなく、目まぐるしく一年を送ることに。アッという間の30余年だった。
そんな中で多くの馬、多くの人と出会ってきた。競走馬は人間がつくったもの。この世に生まれてから、人の手によって競走馬へと育てられていく。その過程ではさまざまなことが起こる。全てが競走馬になれるわけではない。その途上でケガで断念したり、命を落としてしまうケースもある。無事に競走馬になれたとしても“優勝劣敗”の世界は、厳しい戦いの連続。頂点のG1を勝つまでには想像を絶するモノがある。そこには一頭一頭に“馬生”があり、関係してきた多くの人の“人生”がある。そんな物語を取材し、原稿にするのが好きだった。
だからというわけはないが、予想
スタイルは“人情予想”。プロとしては失格なのだろうが、雑音はシャットアウト。最後まで貫いてきた。そんなひねくれた記者がいてもいいだろう。それだけに、予想が的中した時の喜びは倍増だった。
競馬場やトレセン以外での取材も新鮮で興味深かった。シンザンのお葬式取材では、改めて偉大な競走馬だったことを実感。ハイセイコーの近況報告などで出掛けた北海道の馬産地では、子馬がかわいかった。武豊の海外遠征時や、来日する外国人ジョッキーの取材では、毎週のように成田空港へ出向いた。一般の人では入れない駐機場を通って、
サテライトへ向かった(空港関係者同行で)時は興味津々にキョロキョロ。フランス、ドバイへは会社のお金で行かせてもらった。佐々木竹見元騎手の連載では、竹見さんの生まれ故郷の青森県各地を、猛暑の中、地図を頼りに巡った…。
競馬の世界だけでなく、違う世界をのぞけたのも幸運だった。
キタサンブラックの取材では、北島三郎オーナーの“競馬愛”に感銘を受けた。作曲家の故・平尾昌晃さんにはG1予想をお願いし、その担当として10年ほどお付き合いをさせてもらった。その縁で、何度かコンサートやその打ち上げにも同席させてもらった。打ち上げでは、幼少時にテレビなどを通して憧れていたスターが勢ぞろい。ここでもきっと、挙動不審だったに違いない。平尾さんが予想から離れてからも、長くお付き合いをさせてもらった。亡くなられた時は全身の力が抜けた。芸能記者を差し置いて、“悼む”原稿の依頼を受けた時は感謝だった。
まとまりもなくダラダラと書いてきたが、まもなく中央競馬担当としてのゴールを迎える。感動をくれた数多くの馬たち、お世話になった多くの関係者の皆さまには感謝の気持ちでいっぱいだ。老後の楽しみにと、記者デビュー時からためたスクラップも何百冊になることか。引っ込み思案、なのに目立ちたがり屋が、思い切って飛び込んだ新聞記者の世界。自分で言うのも恐縮だが、記者生活の後半は、なぜか予想が当たりまくり、20年から“村神様”の称号まで頂いた。やっかいがられる定年間際のオッサンに、有馬記念の貴重な1面まで担当させてもらい、花道をつくっていただけたことはありがたかった。だからこそ、余計に当てたかった〜。
それぞれ結果は別として、競走を中止することなく、最後まで務めることができたのも、関わっていただいた多くの方々のおかげと、繰り返しになるが、改めて感謝している。人とのつながりの重要さも実感している。3月以降はどうなっているか分からないが、現役生活ももう少し。しっかりと走り切りたい。(デイリースポーツ・村上英明)