今週末日曜に関屋記念(3歳上・GIII・芝1600m)が行われる新潟競馬場は、今年で開設60周年の節目を迎えた。同レースの「関屋」とは、旧競馬場の所在地である。現在の新潟市北区に移る以前、1964年までは新潟市中央区に位置していた。サマーマイルシリーズの第2戦目を飾る一戦を前に、移転にいたる歴史、経緯をひも解いてみたい。
カギを握る「関屋」は、新潟市内から西に約4kmほどの閑静な住宅街。JR越後線に乗り込み、約10分で関屋駅に着く。鉄道路線の踏切には管理上の番号や名称が付いているのだが、同駅から内野方に向かって最初の踏切には、「競馬場踏切」の文字が残る。競馬場がなくなって60年の歳月を経た今も、当時のなごりが見られるのだ。
現在地に移転したきっかけは治水工事だった。昭和のはじめごろ、信濃川の上流から運ばれてくる土砂によって、新潟港の水深が浅くなり、将来的に船の往来が難しくなるのではと懸念されていた。また、1960年代に入ると新潟市内では地盤沈下による浸水被害がたびたび発生。水の流れを変えて、以上2つの問題を解決するべく、関屋分水路なるバイパスの建設が進められた。
だが、関屋分水路は長さ1.8km、川幅200m以上で、数年間をかけて掘削する非常に大規模なもの。実に700戸近い家屋が立ち退きを余儀なくされた。そこで、移転候補地に挙がった場所こそが関屋競馬場であった。
当地では戦後長らく新潟県競馬(地方競馬)しか行われていなかったが、折しも中央競馬の再開に向けて、気運も高まっていたタイミング。1965年に新・新潟競馬場が開設されると、移転に合わせて22年ぶりの中央競馬も再開された。旧競馬場跡地には街ごと移り住み、分水路掘削で出た土は新潟バイパス建設などに使用。競馬場の移転が、新潟の治水や発展に貢献したといえる。
当時を思わせる遺構としては、先の競馬場踏切のほか、近くの関分公園に「新潟競馬場跡の碑」が建つ。競馬場移転から60年。レース名の裏には、新潟の街発展をめぐる歴史が隠されていた。